蒼穹の下で


3月15日
ホビット庄にて。

 その日もいつもと同じく、それでいて素敵な朝でした。
 平和な日々。ついこの間まではなんとも感じなかった
 その時間が今ではより一層・・そう、素敵な朝なのです。
 どんなに寝ぼけているホビットでもそれは分かりました。
 心地よいナイチンゲールのさえずりが外から聞こえてきます。
 太陽がもう南中を差しかけていて・・・南中!?

 「旦那!フロドの旦那!もう起きる時間ですだ!!」

 突然のサムの声でフロドは驚いてがばっと身を起こし、あることを思い出しました。
 昨日のことです。そしてとても大事なことでした。

 「ピクニックだ!」

 今日は久しぶりに皆とピクニックに行く予定だったのです。
 メリーとピピン。懐かしい二人は相変らず元気なようで、二人とも立派なバッグ郷の主人とセインでした。
 近いようでなかなか広いホビット庄では最近4人で会うことは無く、幸せながらも少し物足りなかったのです。
 そんな時に一通の手紙が届きました。
 それは久々に皆と会おうということでした。
 差出人はメリー。ピピンも承知で3月15日の今日、ホビット村の門前で、ということでした。

 「どうして起こしてくれなかったんだい?サム。」
 慌てて服を着替えつつ、フロドは言いました。
 「旦那にはゆっくり休んでもらいたかったんですだ。でも大丈夫、旦那が着替えたらすぐに出かけられるよう、一切合財準備しましただ。」
 そういうとサムはふたつのリュックサックをだしました。
 「お前は本当に気が利くね。」
 フロドはサムを見て(感心の意を込めて)にっこりと微笑みました。
 「さあ!わたしは準備ができた。早く行こうじゃないか!」
 丸いドアを開け放してフロドは快活に歩みだしました。
 「待ってください、旦那!荷物を忘れてますだ!」
 サムもそそくさとフロドの後を追って行きました。

   道はつづくよ、先へ先へと、
   戸口より出て、遠くへつづく。
   道はつづくよ、さらに先へと、
   道を辿って、わたしはゆこう、
   つかれた足をふみしめながら、
   いつかゆきあう、より広い道へ、
   多くの小道と多くの使命が、
   そこに落ちあう、より広い道へ。
   そこからさきは、わたしは知らぬ・・・

 「この歌を歌うのも久しぶりだ。でも、今日のような日には似合わないな」
 一通り歌ってからフロドはため息をついて言いました。
 「そんなことないですだ。フロドの旦那はいつでもどこでも、ぴったりの歌を歌いますだ」
 サムは少し顔を赤らめて言いました。
 「ありがとう、サム」
 フロドはそんなサムを見て、微笑しました。
 ふたりはしばらく何も言わず歩いていました。
 爽やかな風が緑の香りを運んで、とても清々しいものでした。
 まばらに浮かんでいた雲もいつしか消え、空は快晴そのものでした。
 ふたりをさえぎるものなど、何もありませんでした。

 ホビット村門前。
 懐かしい二つの影がはっきりと見えました。
 「ピピン!メリー!」
 フロドは大きく手を振って叫びました。
 二つの影・・ピピンとメリーは振り返り、満面の笑みでフロド達を見ました。
 「フロド!サム!!」
 返事をしたのはメリーでした。
 メリーはすぐさまフロド達の所へ来ました。
 感動の再会で、もう言葉では表現できません。
 なのに、ピピンは来ません。
 「どうしてペレグリンの旦那は来ないんです?メリアドクの旦那」
 サムは少しいぶかしそうな顔でメリーに尋ねました。
 「ああ、あいつはね、腹が減ったからって先にリンゴを食べていたんだ。そこにフロドとサムが来たものだからびっくりしてリンゴを喉につまらせているんだ」
 あっさりと、しかも笑いながらメリーは言いました。
 「笑い事じゃないと思う・・」
 遠目でピピンのもがいている姿を見て、フロドはぽつりと言いました。

 「さて、どうする?」
 ピピンを救出したフロド言いました。
 「もうすぐ、日が暮れるからなぁ」
 メリーは西の空を見ながら額に手をかざして言いました。
 「誰かさんのせいでピクニックは出来ないし、リンゴは喉に詰まらせる・・散々だよ」
 恨めしげにピピンは言いました。
 「前者はわたしの責任だけど後者はどうにもできないよ」
 「そうですだ、我慢のきかないペレグリンの旦那がリンゴを食べて、勝手に自爆しなすったんですだよ」  フロドとサムのダブルパンチにぐぅの音も出ないピピン。(かなり情けない・・)
 「それでも」
 フロドは続けました。
 「野宿はもうこりごりだからな。わたしの家に帰ろう。温かいお茶でも飲んで、語ろうじゃあないか」
 「いいね。僕は賛成だ」メリーは言いました。
 「温かいお茶もいいけれど、ケーキもつけてよ」
 ピピンは(何故か)恥ずかしそうにフロドに言いました。
 「もちろん」
 フロドは笑って言いました。

 四人は軽快に、ハミングをしながら袋小路屋敷(フロドの家)に行きました。
 笑い声は絶えず、本当に気持ちの良いひと時でした。
 夕日も落ち、辺りは静かでしっとりとした夜でした。(そんな事をかれらは気にもしなかったのですが)
 フロドはまあるい緑のドアを開けました。
 わずかに窓から入る月光が暗い部屋を仄かに照らしていました。
 「待っててくれ、今明かりをつけるから・・」
 「おらも手伝いますだ。フロドの旦那」
 フロドとサムのふたりは暗がりの中へ入っていきました。
 ピピンとメリーは玄関の前でつっ立っていました。

 「フロド、案外元気そうだったな」

 「心配してたよりも、ね」

 風にかき消されそうな小さな声でふたりは話しました。
 かれらが二言三言話していると、部屋は暖色に包まれていました。
 「入っていいよ、古きよき友よ」
 にこやかにフロドは言いました。
 「ケーキ、ちゃんとある?」
 情けないピピンはすっかりお腹が空いていたのです。
 「あるよ、昨日焼いた種子入りのケーキがね」
 「お茶沸かしますだよ。アップルティーがいいですかね?」
 サムはやかんを持って言いました。


 「遠い所から声が聞こえる。わたしを呼んでいる」

 小さな呟きでした。誰にも聞こえないはずの囁きです。
 フロドは窓の方に向かってそう言ったのです。
 (ガンダルフ?ビルボ?それとも・・)
 暗闇は月光によってやわらかく、優しいものでした。
 あの時見た恐ろしいものではありませんでした。
 (奥方様の御力がここまできたのだろうか?)
 ふと、フロドにそんな考えが浮かんできました。
 その時、ぼんやりですが裂け谷の人達が見えたように思えました。

 「!!・・ビルボッ・・!」

 ひときわ小さな老人がおぼろげに見えました。
 その老人はフロドの方を向くとにっこりと笑い、振り返って、エルフたちと共に馬を進めていきました。
 フロドはまた声をかけようとしましたが、
 次の瞬間にはもやのように消えうせていました・・。

 「どうしたんだい?フロド」
 「せっかく煎れたお茶が冷めちゃうよ〜」
 メリーとピピンが心配そうにフロドの脇にいました。
 と、いってもピピンは右手にケーキを持って口にもいっぱいにほおばっていましたが。
 「外が気になるのかい?」メリーは言いました。
 「・・いいや」
 フロドは少し元気がなさそうに答えました。
 「嘘をついてはいけませんだ。フロドの旦那」
 後ろで様子を見ていたサムがはっきりとした口調で言いました。
 「旦那はいつもおら達に気を遣って言葉を選びますだ。今もそれには変わりはありませんですだ。つまりは、旦那は外が気になるってこってです」
 少しどもりつつもサムは言いました。
 「なぁ、フロド」
 メリーはフロドに眼を向けて言いました。
 「僕達・・」
 「なんだ、外に出たいなら言えばいいのに。フロドってば水臭いんだなぁ」
 ピピンはでかい声でそう言うとフロドの腕をとりました。
 「え・・ピピン?」
 「星の下のピクニックもいいじゃない!なんでそんなグッドアイデアを隠しちゃうの?」
 そしてそのまま強引にフロドを夜の外に引き込んでいきました。
 もちろん、右手にケーキを持ったまま。
 残されたメリーとサムは唖然としていました。
 「サム」
 「なんですだ。メリアドクの旦那」
 「お茶を水筒に準備してから来いよ」
 メリーはそう言うとピピンに続いて外に駆け出していきました。

 サムだけ取り残された袋小路屋敷はがらんとして、静まりました。
 さやさやと、草をなでる風の音だけが聞こえました。
 「やれやれですだ」
 サムは誰もいない屋敷でそう言いました。

 ピピンとフロドは袋小路屋敷から、ほんの少し離れた丘まで行っていました。
 そこは幼いころによく遊んだ丘で、真ん中に大きな楠が立っていました。
 他より少し小高いのでホビット村がよく見渡せました。

 「・・っ〜疲れたぁ〜」
 ピピンはそう言うと地面に身を投げ出しました。
 「わたしの半分しか生きてないのによく言うよ」
 フロドは笑いながらピピンの隣に腰を下ろして言いました。
 そしてじっとホビット村を見下ろしました。
 ホビット穴から漏れる光はあたたかいもので溢れていました。
 幸せが光そのものに反映されているようです。
 その光景を見てフロドはくすりと笑いました。
 それは自然に心の底からこみ上げきたものでした。

 「フロド!ピピン!」
 フロドが振り返るとそこにはメリーがいました。
 息を切らして急いで追いかけてきた様子でした。
 汗を拭ってフロドのもとに彼は来ました。
 「ふぅ、やっと追いついたよ!で、なんで連れてきた当の本人が寝てるわけ?」
 メリーはピピンの顔を見てあきれた口調で言いました。
 ピピンは鼻ちょうちんを膨らませてとても気持ちよさそうに眠っていました。
 「疲れたんだよ。きっと」
 フロド言いました。
 そしてまたホビット村をじっと見つめました。
 メリーもピピンの隣に座って、フロドと同じようにホビット村を見ました。
 この間、時間はゆっくりと過ぎていくような感覚でした。

 小一時間過ぎた頃でした。
 「メリー・・」
 フロドはメリーに声をかけましたが、彼も静かな寝息をたてて眠っていました。
 「旦那ぁ〜!フロドの旦那!!」
 遠くでサムの声が聞こえました。
 フロドは立ち上がり、サムの声がする方へ歩んでいきました。
 「サム!サム!何処にいるんだい?」
 フロドは叫びました。ホビット村が見える方向とは逆に、こちらは真っ暗で辺りの景色はおろか、近くのものもろくに見えませんでした。
 フロドは一本の木の前に立ってもう一度叫んでみようと試みました。
 「サ・・・」
 その時、急に腕をつかまれてフロドは大変驚きました。
 「やっと見つけましただ!旦那!」
 腕をつかんだ主はサムでした。
 「・・叫び声が悲鳴に変わるところだったよ!まったく、お前にはいつも驚かされる」
 「叫び声と悲鳴ってどう違うんですだ?旦那?」
 サムがあどけなく、なさけない返事をしたのでフロドは笑い出しました。
 「何がおかしいんですだ?」
 サムはむっとした口調で言いました。
 「すまない、べつにお前のことを馬鹿にしたわけじゃないんだよ。よく来たね、サム」
 そう言ってフロドはサムに手を差し伸べました。
 サムも頬を赤らめてうやうやしくフロドの手をとりました。
 そして楠の下に座りました。

 昼間と同じく、空を遮る雲はありませんでした。
 藍色の空は小さな星たちがばらまかれ、月は丸々と、優しい光りを放っていました。
 フロドは何も言わず、ふぅとため息をつきました。
 息は白く、3月といえどまだ夜は冷え込んでいました。
 「旦那、ココアはどうですだ?」
 そう言ってサムはココアをフロドに差し出しました。
 「ありがとう、サム」
 フロドはサムにもらったココアを飲みました。
 温かく、ほんのり甘いココアは身体をあたためてくれました。
 「お前は気が利くね・・あ、これは朝にも言ったな」
 「へぇ、確かに言いましただ。だけどこれはメリアドクの旦那がおらに言ってくれたんで。つまり、おらの気転ではないんです・・。分かってくださりますか?フロドの旦那」
 「メリーが?」
 フロドは少し驚きました。
 「メリアドクの旦那だけじゃないです。ペレグリンの旦那もすごく心配してますだ。もちろんおらもです」
 サムはフロドの顔をじっと見つめました。
 「心配?ありがとう。でもわたしは大丈夫だよ」
 サムに見つめられて動揺したフロドはなんともおかしな答え方をしたもんだと思いました。
 「そうですか・・でもこれだけは言わせてくだせぇ」
 「何をだい?言ってごらん」
 サムは赤ら顔を俯かせ、しばらく考え事をしてたようでしたが
 ついに顔をフロドの方に向けました。
 その顔は真剣そのものでした。

 「みんな、フロドの旦那が大好きだということですだ。
 これだけは・・忘れないでくだせぇ・・・」

 そう言うとサムはまた顔を俯かせてしまいました。
 その顔はさっきよりも一段と赤くなっていました。

 「ありがとう・・・」

 フロドは空に向かって言いました。
 一筋の涙を流しながら。
 蒼い瞳に映える星たちは瞬き、
 ひとつの星が中つ国に落ちてゆきました。

 「旦那、明日こそピクニック行きますだ!とってもおいしいサンドイッチ作りますだよ!!」
 サムは俯いたまま言いました。
 フロドは嗚咽を漏らすのをこらえてサムに抱きつきました。

 「もう一度言うよ・・ありがとう・・みんな、サム・・」

 こらえていたものも崩れ、フロドはおもいきり泣き出しました。
 夜はだんだん更けて、朝が近づこうとしていました。

 その日も素敵な朝でした。お日様はゆっくりと昇り、辺りを日光であたたかく照らし出しました。

 「ん・・・」
 フロドはそんな光で目を覚ましました。
 どうやら泣き疲れてそのまま眠ってしまったようです。
 「おはようございますだ。フロドの旦那」
 サムは眠そうな目でフロドを見ました。
 「おはよう、サム・・。もしかして、寝なかったのかい?」
 「いいえ、さっき起きたばかりですだ。
 それよりも、あの二人・・。まだ寝てますだ」
 サムはピピンとメリーを指して言いました。
 二人ともぐっすり眠っています。
 「鼻ちょうちん・・。ふふっ・・」
 昨日もフロドはピピンの鼻ちょうちんを見ているはずなのですが、何故か今になって笑い出しました。
 そしてその鼻ちょうちんがパチンとはじけた時、ピピンは目を覚ましました。
 「やぁ、グッドモーニング!フロド、サム!・・メリーはどこ?」
 いつものように情けないピピンは、眼をぱちくりさせて二人に言いました。
 「君の隣にいるじゃないか」
 フロドは笑いをこらえながら言いました。
 「本当だ、情けないメリー!!グッドモーニング!」
 おもいきりでかい声を出して、ピピンはメリーの身体を足でこづきました。
 (どうしてこんなに元気なんだろう・・)
 「痛ッ!誰だよ、僕をこづいた奴は!」
 メリーの目覚めはとても最悪のものになりました。
 「ぐっども〜にん♪メリアドク!君がアイゼンガルドでやったことをしたまでだよ。見て!素敵な朝だよ!!」
 東の空に向かって大きく腕を広げてピピンは言いました。
 しかも、とてもスマイリーに。
 それに反してメリーはとても不機嫌でした。(こづかれた所がみぞおちだったようです。とても痛そうな顔をしています)
 「な・に・が素敵な朝だって?最悪だよ!!トゥックの馬鹿息子!」
 メリーはピピンに向かって取っ組み合いを始めました。
 「何するんだよ!」
 突然の事でピピンはびっくりしました。
 「それは君に言いたいよ!!ばかトゥック!」
 「あっ、二回も言ったな!情けないメリー!」
 もうもみくちゃになって二人はわけの分からない喧嘩をし始めました。
 サムとフロドはそんな二人を見て笑いました。(止めてやれ)

 「今日もピクニックは無理そうだな」
 フロドは言いました。
 「明日でも、あさってでも、待ちましょうや。きっといい日に巡り合えるこってしょう」
 サムも言いました。そして二人は顔を見合わせて笑いました。

 その日も素敵な朝でした。